ブルータリズムと、ただ見づらいWebサイトの境界線

ブルータリズムのWebサイトを見ていると、文字が異様に大きかったり、レイアウトが崩れていたり、配色が強烈だったりします。

一般的なWebデザインのセオリーから考えれば、「見づらい」と評価されてもおかしくありません。

でも私は、そんなサイトを見て「読めない、最高」と思うことがあります。

一方で、同じように見づらいサイトなのに、ただストレスを感じて閉じてしまうこともあります。

この違いはどこにあるのでしょうか。

考えていくと、ブルータリズムと、ただ見づらいWebサイトの境界には「意思」があるのではないかと思いました。

見づらければブルータリズム、ではない

ブルータリズムには、巨大な文字、強い配色、崩れたグリッド、独特な配置などがよく見られます。

ただし、それらを並べればブルータリズムになるわけではありません。

「わざとやっている」が伝わるか

文字が読みにくい。

要素が揃っていない。

普通なら置かないような場所に画像がある。

それ自体は、ブルータリズムの条件ではありません。

単に整えられていないだけなのか、それとも**「私はここをこうしたい」と選んだ結果なのか。**

私はそこをかなり見ています。

たとえば制作中にCSSが崩れて、想定していなかったレイアウトになったとします。

そのまま気づかず公開すれば、ただの失敗です。

でも、その崩れを見て「こっちのほうがいい」と判断し、あえて残したなら話は変わります。

偶然にできたものでも、それを選んだ瞬間に意思が入る。

ブルータリズムには、この意思が必要だと思っています。

ブルータリズムなら何をしてもいい、ではない

だからといって、意図的に崩せば何でも成立するわけでもありません。

巨大な文字を置く。原色を使う。グリッドを崩す。ダークテーマにする。

そんな「ブルータリズムっぽい要素」を集めただけでは、私にはブルータリズム“風”に見えます。

ブルータリズムなら何してもいい、じゃない。

一つひとつの選択が、サイト全体の世界観につながっている必要があります。

色も文字も写真も配置も、それぞれは奇妙なのに、全体を見るとなぜか一本通っている。

「この世界では、これが自然なんだ」と感じられる。

その感覚がなければ、奇抜な要素を集めただけになってしまいます。

媚びないことと、不親切は違う

私がブルータリズムに惹かれる理由のひとつが、閲覧者に媚びないところです。

必要以上に説明しない。

きれいに整理しすぎない。

「ここに置いておくので、見たかったらどうぞ」という距離感があります。

でも、媚びないことと、閲覧者を無視することは違います。

「見たい人だけ見ればいい」と「見たくても見られない」

この二つは似ているようで、まったく違います。

「見たい人だけ見ればいい」なら、見るかどうかを決めるのは閲覧者です。

ところが、興味を持って見ようとしているのに、どこを押せばいいのか分からない。必要なものにどうしても辿り着けない。

それは私には、作り手の自己満足に見えます。

愛想はなくていい。

でも、気は利いていてほしい。

画像でも文字でも何でもいいから、「ここを押せば何かある」と見れば分かる。

長々と説明しなくても、閲覧者自身が次の行動を選べる。

私は、そんなサイトを親切だと感じます。

作り手と閲覧者は対等でいい

ブルータリズムでは、作り手が閲覧者に合わせすぎる必要はないと思っています。

でも同時に、閲覧者にもそのサイトに付き合う義務はありません。

作り手は「私はこう作りたいから、こう作った」。

閲覧者は「私は見たいから見る。合わないなら出る」。

そのくらい対等でいい。

だから「見づらい。嫌い」と言われること自体も失敗ではありません。

あなたには合いませんでした。以上。

万人に好かれる必要はないのです。

ただし、最初から閲覧者を不快にするために読めなくしたり、操作しづらくしたりするのは違います。

「嫌われてもいい」と「嫌わせたい」は別物です。

ブルータリズムには、強い意思と美学が必要

ブルータリズムについて考えていくと、私は最終的に二つのものが必要だと思いました。

強い意思と、美学です。

普通のWebサイトならしない選択がある

すべてが整列している。

配色も美しい。

文字も読みやすい。

スクロールも短く、操作も分かりやすい。

それだけなら、どれだけ世界観があっても、私はブルータリズムとは感じません。

どこかに**「普通のWebサイトなら、そうはしない」**という選択が必要です。

文字から意味を奪ってもいい。

余白をなくしてもいい。

クリックしたら突拍子もないものが現れてもいい。

ただし、変わったことをするために変わったことをするのではありません。

その選択にも、やはり意思と世界観が必要です。

本質まで伝わらなくなったら意味がない

私はブルータリズムだからといって、可読性や使いやすさをすべて捨てていいとは思っていません。

何を伝えたいサイトなのか。

そこが一番重要です。

本質が伝わらないなら、そのサイトの価値がなくなってしまう。

世界観を共有することが目的なら、文章を全部読んでもらう必要はありません。

「ここはこういう世界なんだ」と感じてもらえれば、興味を持った人がその先を読めばいい。

反対に、医療や行政のように正確な情報を届けること自体が本質なら、ブルータリズムとは相性が悪いと思います。

好きなデザインだから、どんなサイトにも使えばいいわけではありません。

何を伝えたいのかを守ったうえで、どこまで自分の意思を出せるのか。

そこにも美学が現れます。

【まとめ】ブルータリズムは、自分の意思で作るWebデザイン

ブルータリズムは、見づらく作るためのデザインではありません。

巨大な文字や原色、崩れたグリッドを使えば完成するものでもありません。

私がブルータリズムに感じたいのは、作り手の意思です。

「私はこれが好きだから、こうした。」

その意思が色にも、文字にも、配置にも、サイト全体の世界観にも流れている。

そして、作り手は閲覧者に媚びない代わりに、閲覧者にも見る・見ないを選ぶ自由がある。

だから私は、ブルータリズムを単に「自由なWebデザイン」だとは思いません。

自分の意思で作るWebデザイン。

ただ見づらいサイトとの境界は、そこにあるのではないかと思っています。

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