私は毎日、海外のブルータリズムサイトを巡り、Webデザインとしてのブルータリズムを学んでいます。
無骨さ、読みにくさ、不安、秩序の拒否。そうした要素に惹かれ、まとめサイトのスクリーンショットから気になったサイトをクリックする日々です。
しかし最近、「あの頃のブルータリズム」が消えている瞬間に何度も出会うようになりました。
それは怒りではなく、ただただ悲しさでした。
毎日の習慣としての「今日のブルータリズム」

海外ブルータリズムサイトを見ることは、私にとって単なる情報収集ではありません。思考を耕す、毎日の習慣です。
スクリーンショットから始まる期待
まとめサイトに並ぶ荒々しいスクリーンショットは、未完成で、危うくて、美しい。
文字は読みにくく、余白は無視され、視線は定まらない。
その一瞬に、「これは本物だ」と感じて、リンクを開きます。
クリックした先にある違和感
ところが遷移した先は、整ったミニマルサイトであることが増えました。
整列したレイアウト、優しい配色、読みやすい文字。
悪くない。でも、私が見たかったものではないのです。
変わってしまったサイトたち

ブルータリズムを名乗っていた、あるいは確かにそうだったサイトが、別物になっている現実があります。
ブルータリズムからミニマルへの変貌
以前は不安を煽る構成だったのに、
今は「誰にでも優しい」デザインに変わっている。
尖りが削られ、危険性が消えていると感じます。
それは進化なのか、撤退なのか
進化と言えば聞こえはいいです。
でも私は、突き通せなかった結果の変化にも見えてしまいます。
続けることの難しさを、そこに感じてしまうのです。
なぜブルータリズムは続けられないのか

ブルータリズムを貫くことは、簡単ではありません。
世間が求める「正しさ」
- 読みやすさ
- 分かりやすさ
- コンバージョン
- ユーザビリティ
これらはWebにおいて絶対的な正義です。
ブルータリズムは、それに真っ向から逆らいます。
数字と評価の圧力
アクセス、評価、クライアント、仕事。
現実的な理由が、思想を削っていくこともあるでしょう。
それを責める気持ちは、私にはありません。
それでも私は、見たかった

感情として残ったのは、怒りではありません。
責めたいわけじゃない
やめた理由がある。
変えなければ生き残れなかった。
それは、きっと正しい判断だったのだと思います。
ただ、悲しかった
でも、見たかった。
突き通されたままのブルータリズムを。
負けても、歪でも、未完成でもいいから、
最後までそこにあってほしかったのです。
突き通すことの重さと美しさ

ブルータリズムは、続けるほど孤独になります。
理解されない前提の思想
ブルータリズムは、
- 好かれなくていい
- 読めなくていい
- 快適でなくていい
そういう思想です。
だからこそ、続ける人は少ない。
だからこそ残るもの
突き通されたブルータリズムは、
誰かの心に深く、長く残る。
私は、その存在を信じています。
【まとめ】突き通せなかったブルータリズムへの静かな哀悼

私は、突き通せなかったブルータリズムを責めたいわけではありません。ただ、見たかったのです。変わってしまったことが悪いのではなく、変わらざるを得なかった現実が悲しい。ブルータリズムは負けやすい思想です。でも、だからこそ美しい。
私はこれからも、その「負けた美しさ」を探し続けます。
