最近の日本のWebサイトを見ていると、違和感を覚える瞬間が増えました。
読みたいから訪れたはずなのに、なぜか先に待たされる。
ローディング、フェードイン、スクロール前提の演出。
それらは本当に、ユーザーのために存在しているのでしょうか。
本記事では、「待たせること」「スクロールさせること」を当然とする設計に対して、あらためて問いを投げかけます。
これは特定のサイトを攻撃する記事ではありません。
ただ、Webにおける「主導権」が、いつの間にか制作者側へ偏りすぎていないか。
その点を、コラムとして静かに、しかし明確に言語化していきます。
待たせるという行為が失うもの

Webにおいて「待たせる」という行為は、演出ではなく信頼を削る行為です。
この前提を軽視した瞬間、サイトの印象は大きく崩れます。
1秒で削れる信頼、9秒は論外
ユーザーは「作品」を見に来ているのではありません。
情報を得るためにアクセスしているのです。
- 1秒の遅延でも、体感は想像以上に大きい
- 理由のない待機時間は不安しか生まない
- ローディング中に説明がない時点で、不誠実さが露呈する
演出のための待機は、ユーザーにとっては説明のない拘束です。
| 状況 | ユーザーの心理 |
|---|---|
| 読み込み理由が明確 | 多少待てる |
| 目的が見えない | 不信感が生まれる |
| 長時間の無言 | 離脱を正当化 |
待たせる設計は「自信」ではない
「世界観を感じてほしい」という理由で待たせる設計があります。
しかしそれは、情報そのものに自信がない証拠とも言えます。
- 情報が弱いから演出で引き延ばす
- 語る内容より、見せ方が先に出る
- 結果、主役が不明確になる
待たせることで価値が上がる情報は、ほとんど存在しません。
スクロールを労働にしてはいけない

スクロールは、本来「選択」です。
それを強制した瞬間、Web体験は労働に変わります。
スクロールは選択、強制は独演会
ユーザーは、読む・読まないを常に判断しています。
その自由を奪う設計は、一方的な独演会に近いものです。
- スクロールしないと何も始まらない
- 情報が段階的にしか現れない
- 意図的に全体像を隠す
これらはすべて、主導権の奪取です。
報酬のないスクロールは侮辱になる
スクロールした結果、得られるものがなければどうでしょう。
それは単なる時間の浪費です。
| スクロール後 | 評価 |
|---|---|
| 情報が増える | 納得 |
| 文脈が深まる | 評価 |
| 何も変わらない | 侮辱 |
報酬のない行為を強いる設計は、ユーザーを軽視しています。
動きが人格を持った瞬間、信用は死ぬ

動きそのものが主張を始めた瞬間、情報は後退します。
Webにおいて、これは致命的です。
くねくね、左右別動線、勝手に流れる不快感
以下のような演出を見たことはないでしょうか。
- 左右で異なるスクロール挙動
- 意味のないアニメーション
- 読む前に勝手に進むテキスト
これらはすべて、動きが人格を持ってしまった状態です。
「大人の加減」があるサイトが嫌われない理由
一方で、嫌われないサイトも存在します。
- 情報が整理されている
- 世界観が一貫している
- 動きは補助に徹している
動きが主役にならないからこそ、信頼が残るのです。
【まとめ】主導権を奪った瞬間、離脱は正当化される

表現は自由です。
しかし、主導権は常にユーザーのものであるべきです。
待たせた瞬間。
強制した瞬間。
演出が前に出た瞬間。
そのすべてで、離脱は正当化されます。
Webに語る資格があるかどうかは、設計の姿勢が決めているのです。
「Webは舞台じゃない。観客は立ち去れる。」
