ブルータリズムは、私にとって流行でも手段でもありませんでした。
それは一時期、確かに生き延びるために必要だった思想です。
この文章は、成果や反省をまとめるための総括ではありません。
もっと静かで、もっと個人的な——終わったものに石を立てるための記録です。
燃え尽きたからでも、飽きたからでもない。
「もう十分だ」と、はっきり感じた瞬間があったから書き残します。
なぜ私はブルータリズムを始めたのか

ブルータリズムを始めた理由は、かっこよさや差別化ではありません。
むしろその逆で、整いすぎた世界に息苦しさを感じていたからです。
きれいなものが、信用できなかった
当時の私は、整然としたWebや、正解だけで構成されたデザインに強い違和感を覚えていました。
それらは間違っていないのに、嘘くさく見えたのです。
- 感情が削ぎ落とされている
- 失敗や未完成が存在しない
- 誰にも刺さらない安全さ
ブルータリズムは、そうした世界への小さな反抗でした。
荒くて、不親切で、説明を放棄している。
それでもそこには、誤魔化していない気配がありました。
一番、熱があった場所と時間

ブルータリズムに最も熱を注いでいた時期、私は大量のサイトを見て、書き、分類していました。
その行為自体が、すでに一種の祈りに近かったと思います。
調査と記録が、目的そのものになった
数を重ねるほど、判断は早くなり、言語化は鋭くなりました。
「これは違う」「これは本物だ」と、一瞬で見分けられるようになったのです。
その過程で残ったのは、以下のような感覚でした。
| 状態 | 内側で起きていたこと |
|---|---|
| 初期 | 驚きと興奮、発見の連続 |
| 中盤 | 分析の快感、言語化の加速 |
| 後半 | 既視感、静かな疲労 |
熱は確かにありました。
でもそれは、永遠に燃やし続ける種類の火ではなかったのだと思います。
終わった瞬間と、そのあとに残ったもの

「もう十分だ」と感じた瞬間は、劇的ではありませんでした。
静かで、迷いがなく、むしろ安堵に近いものでした。
やり切ったという感覚だけが残った
終わりは、喪失ではありませんでした。
むしろ回収です。
- 見なくても、わかる
- 書かなくても、判断できる
- 主張しなくても、軸が残っている
ブルータリズムは終わりました。
でも、そこで得た視点・拒否感・感覚の鋭さは、私の中に沈殿しています。
それはもう、掲げる旗ではなく、身体感覚として残ったものです。
【まとめ】終わったブルータリズムが残した静かな軸

ブルータリズムは、役目を終えました。
しかしそれは失敗でも撤退でもありません。
必要な時期に、必要なだけ触れ、きちんと手放しただけです。
この記録は、次へ進むための宣言ではなく、
過去を美化するための総括でもありません。
ただここに、終わったものの墓標を立てておきます。
静かに、確かに。
